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::: 王育德紀念館-一生を台湾の夜明けに捧ぐ
文学青年から多面的活動家へ

文学青年から多面的活動家へ

王育徳(1924-1985)、それは台湾人が忘れてはならない名前である。 王育徳と兄育霖(1919-1947)は、共に台北高等学校および東京帝国大学の卒業生であった。二人は、将来台湾の為に役立つ人間になろうと誓い合ったが、戦後、運命は兄弟を翻弄した。育霖は228事件の犠牲になり、育徳は25歳で日本へ亡命。日本で自由を得た育徳は、愛する故郷のためにできる限りのことをすると決め、一生を台湾人の幸せのために捧げたのである。 それは、台湾語の研究、台湾独立運動、台湾文学の研究、台湾人元日本兵士の補償請求運動など、多岐にわたるものであった。そして、その全てが、故郷を想う一つの泉から湧き出たものであった。 育徳は国民党政権のブラックリストに載せられたため、一度も帰国できぬまま日本で亡くなった。
今、魂はこの地に迎えられたのである。

阿江とその子供達。左から育徳・錦碧・阿江(母)・錦香・育霖
台湾の共通言語コレクション

言葉は民族の魂である-台湾語の研究

王育徳は、「言葉は民族の魂である」という信念を持ち、「台湾人」が民族として存続していくためには、台湾語の発展と人口に膾炙した表記法の確立が不可欠だと考えていた。それゆえ、育徳が日本に渡り東大に復学して最初に着手したのは、台湾語(ホーロー語)の研究であった。 それ以前には、台湾語の科学言語学的研究はほとんど行われていなかった。王は、当時世界的にも最先端であった言語学研究方法にのっとって台湾語の研究を進め、音韻論や語法などに関する多くの論文を発表し、高い評価を得た。 1957年には台湾人として初の台湾語辞書『台湾語常用語彙集』を出版し、その際には苦労して手に入れた家を売却して費用を捻出した。 また、大学にて世界初の台湾語の授業を行い、『台湾語入門』・『台湾語初級』などの学習書を出版することで、多くの後進を育てた。
「台湾語の研究は、その成果が台湾語の墓碑銘になろうと、頌徳碑になろうと、わたしがやる以外に人がない。台湾には台湾語をよく知り、関心をもつ人が少なくないが、台湾語を学問的に研究できる環境でない。わたしが知っている砂漠のような環境は、ますますひどくなりこそすれ、改善されることはない。」―王育徳「台湾語の研究」

台湾の紹介、台湾のプライマリ
台湾独立運動

民主と自由を求めて-台湾独立運動

王育徳は、1949年日本に渡ってからも、故郷で言論や行動に制約を受け不自由を強いられている人々のことを常に憂えていたが、1960年3月に大学院博士課程を修了するまでは、学問に専念した。1960年春、台南一中の教え子たちと「台湾青年社」を立ち上げ、機関誌『台湾青年』を発行し、台湾独立運動を開始した。『台湾青年』を発行した目的は、台僑や留学生たちに台湾独立の必要性を理解させ運動に勧誘すること、および日本人に理解と支援を求めることであった。 事務所および活動拠点は王育徳の小さな自宅で、ここに“台湾青年”たちが集まって、議論をし、雑誌の校正をし、発送作業を行った。留学生たちはペンネームを使ったが、王育徳は本名を名乗り、『台湾青年』の発行所として自宅の住所を公表した。

台湾青年、育徳が台湾脱出時に唯一持って出た鞄。
帰還した人々 台湾人元日本兵補償

非情の判決を乗り越えて-台湾人元日本兵補償

太平洋戦争中に日本軍として出兵した台湾人は約21万人、戦死者は3万人にのぼる。しかし、戦後、日本が台湾を放棄した後、国籍が変わったという理由で、台湾人戦死者の遺族や数多くの戦傷者は、何の補償も受けられないまま放置されていた。
1975年2月28日、王育徳は「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」を設立。有識者、弁護士、台湾兵の元上官、一般市民などが運動に参加し、多くの日本人が支援する社会運動へと発展した。1987年、ついに、台湾人元日本兵士戦死者遺族及び戦傷者に対して、全員に一律200万円の弔慰金を支払う法律が制定されるに至った。日本の国家予算563億円を使っての補償であった。 この活動は国家間の外交関係が断絶しているなかで、日本人が台湾人の補償実現のために、誠心誠意努力し目的を達成した稀有なものであった。戦後の台湾と日本の関係において特筆すべき歴史的事項である。この運動からも発起人である王育徳の人道的精神と社会的関心の深さがうかがえる。

台湾人元日本兵補償
小さな書斎が

小さな書斎が大きな世界を開く

日本に渡ってから王一家は広い家に住んだことがない。1960年「台湾青年社」が旗揚げされた際に住んでいたのは借家だったため、事務所として使うのには不適当と判断し、1961年に豊島区千早町に戸建てを購入した。このとき、書斎は6畳(9.9㎡)であった。 学者である王にとって、書斎は仕事場であった。朝食後、「戦闘開始~!」と言って、急須と湯呑を持って二階の書斎へ行くのが習慣だった。この部屋は、来客時には応接間となり、聯盟の事務所だった頃には、留学生が大勢集まる会議室兼編集室兼発送作業室でもあった。そして、夜には布団を敷き寝室として使っていたのである。 この6畳(9.9㎡)の小さな部屋は、台湾人の未来を開いたのである。

台湾青少年クラブ この6畳(9.9㎡)の小さな部屋は
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